マンガ・アニメ・映画・ゲームなどのエンターテインメント全般をこよなく愛する松山洋さんは、株式会社サイバーコネクトツーの代表取締役です。
2022年9月現在、松山洋さん原作の漫画『チェイサーゲーム』がドラマ化され放映中。
松山洋さんの言葉や想いが散りばめられている『チェイサーゲーム』は、実話に基づいた物語ですが、そんな松山洋さんの仕事に対する考え方、気になりますよね?
経歴や名言とともに、【松山洋×仕事】とは何かを深掘りしていきます。
それでは早速、松山洋さんから刺激を受けていきましょう!
松山洋(まつやま ひろし)って?
出典元:ファミ通.comより
プロフィール
生年月日・・・1970年11月23日
出身地・・・福岡県福岡市
趣味・・・仕事
職業・・・【株式会社 サイバーコネクトツー】代表取締役社長、ゲームクリエイター、映画監督。
経歴
・九州産業大学商業部を卒業後、コンクリート会社に3年勤務。
・1996年、大学時代の友人に誘われ『サイバーコネクト』を設立し、営業とグラフィックデザイナーを兼任。
・2001年、代表取締役に就任するとともに、社名を『サイバーコネクトツー』へと変更。
・代表就任後もディレクターとして開発に携わる。また、代表作である『.hackシリーズ』にはゲームのみでなく、メディアミックス作品の原作や監修として中心的な役割を担う。
・2007年、ゲームの監督業を降り、ゲームデザインや監修する立場へ。
・2018年、自身が原作を務めるゲーム業界お仕事漫画『チェイサーゲーム』をファミ通.comにて連載開始。(2021年11月に連載終了)
・2022年、テレビ東京系列にて『チェイサーゲーム』が実写ドラマ化。
手掛けた主なゲーム
出典元:.hackサイトより
松山洋さんが代表取締役社長を務めるサイバーコネクトツー。
手がけた主なゲームを見てみると、どれも知っているビッグネームですよね。
まだやったことがないという人でも、必ずと言っていいほどどこかで見ていると思います。
ビックネームを手がけている松山洋さんの趣味は仕事。休みの日も仕事。
ここまで生活に仕事が浸透している人って、周りにいますか?
もちろん、忙しくて仕事だらけという人はいますが、松山洋さんは仕事が好きで好きでたまらない感じがしますよね?
そんな松山洋さんの仕事に対する想いや、考え方はどのようなモノなのでしょうか?
松山洋×仕事
出典元:ファミ通.comより
小学生〜高校生までは漫画家になることが夢だったという松山洋さん。
そして大学生の頃からエンタメ業界に夢を抱き始めた松山洋さんですが、大学卒業後はコンクリートを扱う建設会社に就職し、3年間会社員を経験しました。
どうしてすぐにやりたいエンタメ業界に飛び込まなかったのか、2019年のインタビューで以下のように語っています。
―― 松山さんのキャリアのスタートは?
私が所属していた漫画研究同好会の歴代メンバーには、在学中に漫画家デビューが決まり、大学を中退して単身上京する人もいましたし、アニメーターになることが決まって中退していく、ということもが割と普通にあるチャレンジングな環境でした。
ところが……、その多くが半年や1年で夢破れて帰ってきてしまうんです。「去年送別会をして、上京していったはずの先輩をこないだ駅前で見たぜ」といった噂が流れるんです。「そんなバカな!」と疑うものの、本当に戻ってきているんですよ、しかもなぜか、かつて住んでいたアパートに(笑)
そんな先輩の家に押しかけて理由を尋ねると、「あの業界は自分の常識が通用しない!」「仕事の環境が過酷すぎる!」「あのままいたら自分がダメになる!」……等々。同じような理由を訴えて出戻ってきた先輩の数は一人や二人ではなく、数十人規模でいたものですから、安易に『夢』に賭けてエンタメ業界に飛びこんではいけない……と、危機意識を強くもったわけです。
引用元:next.rikunabi.comより
出典元:next.rikunabi.comより
―― なるほど……。そんななかコンクリート業の会社を選んだのはなぜですか?
夢破れて出戻ってきた先輩たちが「漫画業界はおかしい」「アニメ業界は非常識」とか言うけれども、そもそも大学中退して経験値もなくその世界に飛びこむことが非常識なんじゃないか?……と私は思うようになりました。
だからまずはちゃんと社会勉強をして、分別のつく大人になってから、戦略的に自分の夢を叶える方法を模索しようと考えたわけです。就職にあたっては世の中で一番カタい公共事業をてがける建設業界に入り、いわゆる入札の仕組みや、どうやって現場が回るのかってことから学ぼう、と思い至ったのです。
仕事には、個人の努力でなんとかなる領域、チームワークでなんとかなる領域、会社ぐるみで取り組んでなんとかなる領域ってありますよね。一方、どれだけやっても無駄な努力っていうのもあります。その「どうにもならない世の中の壁」を見極められる人間になろうという想いをもって、会社員時代を過ごしていました。
引用元:next.rikunabi.comより
出典元:next.rikunabi.comより
こうして聞くと、やっぱり社長だから考えることが違うなぁと思いましたよね?
でも何がすごいって、これを考えて実践してたのは松山洋さんが大学生の頃なんですよね。
実際自分の先輩が夢破れて帰ってきても何も思わないか、まぁ自分ならできると謎の自信を持つ年頃だと思うんです。(一般的というか、少なくとも私の周りは)
細かく分析して、しかもただ社会に出て勉強するのではなく、一番カタい公共事業をてがける建設業界を選び、どうやって現場が回るのかってことから学ぼうと考える。
さらに「どうにもならない世の中の壁」を見極められる人間になろうという想いをもって、会社員時代を過ごしていたというのですから。
同じ年頃の私といえば、ただただ会社員として日々を過ごし、「どうにもならない世の中の壁」というものに気づいたのはだいぶ後のことだったなぁと振り返ります。
仕事(エンタメ)への熱い想いの原点
松山洋さんが抱くエンタメへの熱い想いの原点は、子供時代にあります。
小学1年生から5年生まで長崎県の島原に、小学6年生から中学2年生まで同じ長崎県の対馬に住んでいた松山洋さんは、その中でも3年間過ごした対馬が思い出深いと語っていました。
当時から漫画を読むことが大好きだったという松山洋さんですが、その頃はまだまだ娯楽が少なかった上に対馬は『週刊少年ジャンプ』ですら本屋に並ぶのが遅かったのだとか。
ジャンプは現在、全国一律で毎週月曜に発売されますが、当時は福岡で1日遅れ、対馬はさらに遅くて、下手すると1週間も待たなきゃいけない。
台風の時といえば、2週分のジャンプが本屋に並んでいたなんてこともあったといいます。
出典元:suumo.jpより
―― 好きな漫画も手に入りづらい環境でしたか?
入荷数も少ないんで、発売日には島内の子どもがみんな、われ先にと本屋へ走るんです。クラスの中で「今週はアイツが買ったらしいぞ」っていう情報が出回って、買えなかったヤツは、そいつに見せてもらうんです。そんな環境だったから、ジャンプの発売日はクラスメイトが狼に見えましたね。―― 食うか食われるか。
松山:まさに。だから福岡に引越したときは、逆に周りのヤツらが子犬に見えました(笑)。だって、ジャンプの発売日なのに誰も本屋に走らない。オマエら、そんなボーッとしてたらやられるぜ? ここに狼は一匹もおらんのか!と。
―― 漫画だけでなく、ゲームへの渇望感もあったんですよね。
松山:対馬にはおもちゃ屋も当時1軒しかなく、ゲームの入荷数も少なかった。ファミコンは1983年の発売から1年半後に、やっと買えました。もう、うれしくて躍り狂いましたよね。初めて買ってもらった“スーパー”じゃないほうの『マリオブラザーズ』を兄弟でやり込んで。
あとは、ゲームソフトをたくさん持っている裕福な同級生の家に集まって、『ゼビウス』やらなんやら、ひたすら遊び倒したのを覚えています。そこで初めて、「誰かと一緒に遊ぶのって楽しいんだな」と思った気がするなぁ。釣りの時には全く感じなかったんですけどね。
たぶん、対馬での“常に足りない”日常の感覚が、今も私の根っこにあるんでしょうね。いつもノドがカラカラだったあのころの原体験があるからこそ、エンタメに対する渇望感が生まれたんだと思います。
引用元:suumo.jpより
その後、中学3年生になりカルチャーであふれる福岡に引越した松山洋さん。
福岡は、本屋もただ数が多いだけでなく店ごとに個性やテーマがあったり、連載されている発行部数の少ない漫画が普通に買えたりと、掘れば掘るほど面白いものが出てきたといいます。
対馬時代では実現しなかった出会いの連続に、大海原に放たれたようだと表現する松山洋さんはエンタメへのアンテナをますます高く張るようになったそうです。
出典元:suumo.jpより
やはり根源にこうした渇望感やエンタメ・娯楽に対する飢え、執念。
そして純粋にエンタメが大好きだからこそ、大人になった今でも熱い想いが持続するのでしょう。
こうして松山洋さんの子供時代の話を聞くと、私の子供時代はどうだったかなぁと振り返ってしまいますね。
私が初めて手にしたゲーム機はスーパーファミコンでした。
兄との二人兄弟だったため、一緒に遊べるようにと選んでくれたのだと思います。
しかし私の父はゲームソフトに何を選んでいいのか分からなかったのか、まだ小学生だった私にパチンコのゲームソフトを選んでくれたのです。笑(父が当時好きだった娯楽がパチンコ)
せっかく父が選んでくれたパチンコのゲームソフトですから、子供ながらに気を遣い、楽しそうに取り繕っていたのを思い起こします。
その後、本当にしたいゲームソフトをねだりまくったのはいうまでもありませんが…。
今ではとてもいい思い出です。笑
仕事に対する考え
出典元:ファミ通.comより
会社を立ち上げてから4年が経つ頃、当時の社長が唐突に蒸発したのだとか。
その時のことを松山洋さんは次のように語っていました。
――何の前触れもなしにですか?
松山 あるときから連絡がつかなくなって、突然いなくなりました。「人っていなくなるんだな」と思いましたよ(笑)。会社もなくなってしまうことになったので、当時17人いたスタッフを集めて、私から事情を説明しました。どのメンバーもモノを作る能力はあったので、再就職することもできましたが、「もう一度やり直すチャンスがほしい。俺に社長をやらせてくれないか」と言ったんです。
「4年間いっしょにやってきて、あくまで個人的な意見だけど、このままではずっと勝てない。せっかく皆、能力も才能もあるのに、それを活かしきれていない。皆で話し合って決めるのもいいけど、仕事はそんなに甘くない、責任の所在がハッキリしない仕事に結果はついてこない」みたいなことを言って、当時の資本金300万円も私がすべて買い取って、あらゆるルールを私が決めることにしました。
――全員体制から松山さんがリードする形に大きくシフトした。
松山 「俺がルールになる代わりに、責任は全部俺が取る。お前らを歌って踊れるデベロッパーにしてみせるし、金持ちにもしてみせるから、言うことを聞いてほしい。イヤなら解散しよう」と話したら、全員残ってくれたんです。そこから社名をサイバーコネクトツーと変えて再スタートしました。その後『.hack』シリーズが立ち上がり、『ナルティメット』シリーズ、『ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン』、『ASURA’S WRATH(アスラズ ラース)』などのゲームを生み出し、そしていま『ドラゴンボールZ KAKAROT』を作っている……というのがこれまでの経歴ですね。
引用元:ファミ通.comより
当時から松山洋さんは、リーダーとして力を発揮していたのですね。
どのメンバーもモノを作る能力があり、再就職することもできたはずの全員が残ったというのは、松山洋さんの人望は言うまでもなく、それに加え『人を巻き込む力』や『自分ごとにさせる話術』、『仕事に対する覚悟』などがあったからこそなのだと感じます。
他の誰でもない、松山洋さんだったからこそ、現在の『サイバーコネクトツー』があるのですね。
松山洋の名言
画像
2022年9月現在、松山洋さん原作の漫画『チェイサーゲーム』がドラマ化され放映中ですが、そのチェイサーゲームの中から、【松山社長】の名言を少しご紹介します。
『終わらせるつもりでした』は既に嘘になってるんだよ
『終わらないかもしれない』という報告だ!!
これからはプレイングマネージャーとしての自覚をもて
これ全て序盤(ドラマでは第一話)での名言なんです。
もっともっと【松山社長】の名言、気になりますよね?
ぜひチェックしてみてくださいね!
まとめ
今回はサイバーコネクトツー代表取締役社長の松山洋さんをご紹介しました。
仕事に対する想いは、大好きなエンタメに対する想い。
大好きなエンタメだからこそ、真剣に向き合いたい。
そのためには遠回りだと思う道のりでも経験を。
松山洋さんの経験や言葉は、職業を問わず、今一度自分の仕事に対する考え方、社長を含めた上司の言葉の真意とは何なのかなどを見つめ直すキッカケになるのではないでしょうか?
ぜひ今後の松山洋さんの動向にも注目してみてくださいね!
最後までご覧いただき、ありがとうございました。